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  • JAXAを見学してきました

    今日はJAXAの見学に行ってきました。
    正式名称は「宇宙航空研究開発機構」とのこと。日本のNASAのような機関ですね。

    一般向けの展示があって、予約なしで無料で見学できます。
    今日は平日で十数人しか見学者はいませんでした。夏休みとかは子どもで混むらしい。

    2時間おきくらいに展示の解説のガイドも行われています。これも無料です。
    私はこのガイドには参加せず、JAXAの研究員の友人・M氏にガイドしてもらいました。これも無料でした。

    ハヤブサ

    リアルな人工衛星が展示されています。本物もあります。
    人工衛星は打ち上げに失敗したときのため、1度に2機作ることがあるらしい。そして1機目が無事打ち上げ成功したら、もう1機はいらなくなるので、展示室に飾られることになる。

    片や宇宙へ飛び立ち、使命を果たして、宇宙の藻屑となり、片や地球の安全な展示室で一生を過ごす。
    どちらが幸せなのでしょうね。

    ちなみに、人工衛星を宇宙の藻屑にするとスペースデブリと呼ばれるゴミになります。
    このようなスペースデブリは非常にたくさんあって、何億円もする人工衛星に衝突する可能性もあって非常に危険。

    M氏によると、スペースデブリを除去するには、例えば静電気力(と言っていた気がする)を利用してデブリの大きな塊を作って、地球に落下させるという方法があるらしいです。しかし、デブリは非常にたくさんあるし、増える一方なのだそう。

    それに、誰が(どこの国が)ゴミ処理にお金をかけるとかいう問題もありますね。
    わざわざ大金を投じて他国が出したデブリを処理したがる国はいないでしょうし……。

    たしかに、国際宇宙ステーションとかに当たると大変ですね。だから、できる限り、ミッションを終えた人工衛星は宇宙で完全に破壊するか、地球の海に落下させるようにしているようです。

    バックにあるのが国際宇宙ステーションの実験室

    現在、月に移住するアルテミス計画が指導しており、日本も参加しています。
    月は重力が小さく、空気をとどめておけないため、月に住むメリットはあまりありません。

    ならば、なぜ月移住を計画しているかというと、将来人類が火星に移住するための「予行練習」らしいです。火星はそこそこ重力もあるため、大気が存在しているし、水もあるため、過去に生命が存在していた可能性も無きにしも非ず。空気と水と光があれば植物が育ちます。

    しかし、火星に行くには片道1年くらいかかるため、近場で予行練習をするのがアルテミス計画です。
    現在、宇宙ステーションで宇宙飛行士が生活しているように、20年後くらいには、月で宇宙飛行士だか研究者だかが生活する計画のようです。

    地球の人口は年々増えており、資源不足で、エネルギー問題も解決する兆しがない。
    地球外への道を開く時代がやってきたようです。わお。

    M氏は宇宙に行ってみたいとのこと。わたしは行きたくありません。

    Lina「地球が一番いい」
    M氏「でも、鹿児島(我々の地元)から一生出たくないって考えなかったでしょ。それと一緒で、地球から一回も出ないって考えられなくない?」

    M氏のこの発言には「たしかに」と思わされました。
    我々はすごい時代に生きているようです。

  • 5年ぶりの鹿児島帰省

    7月4日から7月13日まで、5年ぶりに鹿児島に帰省していました。9泊10日でした。
    会社員をしている間は、こんなにまとまった期間、帰省をすることはできなかったため、フリーランスっていいなと思います。

    わたしは旅行は長期で行くと決めています。
    2泊3日くらいの長さの旅行をするなら、特急電車でいける距離、つまり日帰りも可能な場所にしか旅行に行きません。

    そのため、必然的に会社員をしていたここ2年ほどは、出張を除いて旅行は近場に1回だけ(日光・鬼怒川温泉に行きました)。

    ここ数年、旅行が少なかったのは、COVID-19の影響もあったのですが、それ以前であっても社会人になってからは、新幹線に乗る距離以上の旅行はすべて長期ですね。関西10日とか。

    旅行は長期の方が経済的で合理的です。4泊以下で海外旅行とか行く人もいるようですが、私的にはアジアの近場でもありえない。ヨーロッパやアメリカ大陸まで行くならば、10 nights or more。それ以下は、もったいないと思ってしまいます。

    たぶん、短期旅行をする人は旅行が趣味なのだろうと思います。趣味は多かれ少なかれ定期的・継続的に行うという側面があるし、趣味は経済的でも合理的でもなくていい。むしろ趣味の本質は「浪費」することを厭わないことなのではないでしょうか。

    わたしにとって旅行は趣味ではないということになります。ですが、テニスにはお金も時間も随分「浪費」しました。うん、幸せ。

    それで、9泊10日、鹿児島で何をしたかというと、仕事、人に会う、以上。
    観光らしい観光は全くせずに終わりました。

    フリーランスは基本毎日がお仕事です。
    急ぎの案件が舞い込んだので、連日ファミレスorコメダ珈琲に籠もってお仕事。

    わたしは、コメダ珈琲には非常にお世話になっています。Wifiもコンセントもあるし、椅子が座り心地が良いし、チェーンだから長居しやすい。バイトに顔を覚えられるくらいに出没している店舗もあります。8時間くらい居座ることもある。迷惑がられていなければいいけれど。

    鹿児島中央駅や天文館という商店街付近に、コメダ珈琲がちらほらオープンしていました。前回帰省したときはなかった。東京とはメニューも少し違ったし、コーヒーが100円ほど安かったです。

    あとは、ジョイフル。これは(たぶん)九州をメインに展開しているファミレスチェーンで、価格帯はサイゼリヤくらいなのですが、クオリティはジョナサンやデニーズのレベルで非常にコストパフォーマンスが良い。

    Wifiもあるし、コンセントもあるし、テーブルも広いし、ソファ席だし、とても快適に作業ができました。

    ジョイフルで勉強をしている高校生も非常に多かったです。わたしも高校生のときはお世話になりました。そして、大人になってもお世話になることになりました。

    このクオリティと安さだから、サイゼリヤが鹿児島に進出していないのも頷ける。ランチはドリンクバー込みで500円でした。

    昼間はカフェかファミレスで仕事をして、夜は友達or家族とご飯でした。

    9泊だと食べられるディナーは最大9食だけ(それ以上食べてもいいのだろうけれど)。家族と3、4日は一緒にディナーを食べるとなると、そのほかの人と夕食時に会えるのは5日程度ということになります。平日の昼はみんな働いているため、夜しか会えない。

    つまり、会えて5、6人ということになる。私は、3人以下でしかディナーに行きたくない主義で、4人で食事するのは少し多いと思ってしまう。基本は2人。

    そのため、会える人数も非常に限られているのですが、そもそも鹿児島出身なのに鹿児島に友人はそれほどいなかったりする。

    中学までの友達で連絡を取り合う仲なのはほんの数人。あとは、高校以降の友達で、こちらはほとんどが鹿児島を出ている。
    東京のほうが地元の友達がたくさんいる、というパラドックス。これは、地方の進学校あるあるなのかもしれません。

    その進学校・鶴丸高校にも、卒業ぶりに足を踏み入れたし、久しぶりに会えた人がたくさんいたし、鳥刺しと魚をたくさん食べたし、有意義でした。

    そして、羽田に着陸し、すぐに夕方のラッシュアワーの地下鉄に揉まれ、東京いやだなあと思いつつ、でもマンションにたどり着いたらとほっとしたのは一人暮らしが長いからでしょうか。

  • この世に存在するすべてが「メディア」なのではないか

    ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』:今までの人生で直接見た絵画の中で最も感動した作品

    最近、友人と「メディアアート」が何を指すのかについて話していた。

    メディアアートとは、映像、音響、コンピュータ、インターネットなどのデジタル技術を活用した芸術のことをいう。伝統的なアートとは異なり、新しい表現方法やインタラクティブな体験が可能になる。

    そこで、ふと思ったのが「メディア」が何を指すのかということだ。

    まず、私がすぐに連想する「メディア」は、新聞、テレビ、雑誌、ウェブサイトなどである。これらは報道機関やライターなどの情報発信者が情報を掲載して伝達する媒体だ。新聞やテレビは「マスメディア」とも呼ばれる。

    しかし、工学系の理系の友人からすると、USBやSSD、ハードディスクなどのメディアも思い浮かぶという。パソコンを使っていると、よく「ハードウェアを安全に取り外してメディアを取り出す」という表現が見られる。

    メディアは「情報を伝える手段や媒体」のことと定義される。

    だから、新聞やテレビは文章・写真・映像などによって情報を伝達するメディアだし、USBもデータを保存して伝達するツールだからメディアといえる。

    だが、それなら、伝統的な絵画もメディアだ。絵によって情報を伝えている。

    ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』は、写真が一般的ではない時代にフランス革命についての情報を伝達しているメディアだ。

    情報伝達のツールであるUSBや新聞紙、雑誌のページそのものもメディアと言えるなら、情報伝達をするツールである絵の具や鉛筆もメディアといえる。

    それでは、メディアアートとは一体何なのだろうか。

    さらに、鉛筆の表面には「HB」や「●●工業」などの硬さやメーカーの情報が印刷されているため、鉛筆もメディアとしての役割を果たしている。また、文字に書かれていなくとも、緑色の鉛筆ならば、緑という情報を伝達している。

    私の机の前に置いてある観葉植物も緑色の葉を持っており、緑という情報を伝達している。

    机の前に置いているパキラ

    パキラという品種名も伝達している。葉は6枚で1組だ。5枚や7枚で一組の株もあるらしい。
    確かめたわけではないが、これは遺伝子によって決まっているはずだ。

    つまり、パキラが6枚1組の葉をつけるパキラは、その形質を発現させる遺伝子のDNAの塩基配列の情報を伝達している。

    私自身も目や肌の色、声、身長などとありとあらゆる遺伝情報について伝達しているメディアであり、私の香水も香りとその香りを発散させる化学物質の情報を伝達しているメディアであるし、空も太陽の位置や光の拡散具合といった情報を伝達しているメディアだ。

    このように考えれば、何一つ情報を媒介しないような存在がこの世に存在しているだろうか。

    この世の物質すべてがメディアといえる。
    そして、やはり疑問に思うのが「メディア」とは何かということである。

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