知識は即時的な判断力と賢い選択のソースである
今朝、漏電ブレーカーが落ちた。写真の真ん中のブレーカーだ。
一人暮らしを始めてから約10年が経つ。その間、何度か一番左のブレーカーが落ちた経験はあった。
しかし、他のブレーカーやスイッチを触ったことはなく、それらが落ちることすら知らなかった。だから、今朝停電したとき、左のブレーカーがしっかりと上がっているのを確認し、何かの工事やマンションの修繕で停電したのかと思った。その連絡を見逃したのかとも思った。
しかし、電力は一向に回復しない。ネットで検索しても停電情報はない。
そして、廊下に出てみると、天井の電気はついている。これは我が家のプロブレムだ。再度ブレーカーを確認したら、真ん中のブレーカーが落ちていた。
今日初めてその漏電ブレーカーの存在を知った。
知っていたら、暗闇の中で洗面所を使わずに済んだのに。我が家の洗面所には窓がない。漏電ブレーカーが落ちた原因はわからなかった。
しかし、マンションの管理会社に一応連絡した。万一、火災になって自己判断で報告しなかったために、保険金が下りない事態を避けたかった。
その後、午前中は区役所に行った。
会社を辞めたため、健康保険証の切り替えや年金への加入など、いくつかの手続きが必要だった。社会保険から国民健康保険に切り替えるためには、離職票が必要らしい。知らなかった。
まだ離職票はもらっていない、はず。退職の時に、たくさん書類をもらったからよくわからない。しかし、明日から10日ほど東京を離れる予定だった。
だから、10日間保険がない状態はどうしても避けたい。区役所の職員が会社に電話をかけて私の退職を確認すれば、それで良いとのことだった。
だから、その確認をしてもらった。そして、国保の保険証をGET。うーん、それでいいのだろうか。また、離職者は国民年金の免除申請が可能だと聞いた。これも知らなかった。
免除するか支払いを続けるかどっちがいいのかと聞かれたので、免除をお願いすることにした。正直、どちらが得かはわからない。
長生きするなら、支払い続けた方が得かもしれない。学校の社会の授業では習わなかった。私が永久に日本国籍を保つ保証も、私の老後まで日本が存在する保証もない。
再生医学が発展し、人間が老いなくなり、年金の受給年齢が100歳になるかもしれない。うん、これが一番可能性が高そうだ。午後は、業務委託や機密保持の契約書を確認した。
「ただし、〇〇を妨げない」という表現があった。この「妨げない」の意味が腑に落ちなかった。
「〇〇の限りでない」が使われていたらならばすんなり理解できたが、「妨げない」とはどういう意味なのかわからず、10分くらい考えた。「妨げない」と「限りでない」の違いも分からない。
このような日本語の知識は仕事をする上で必要だ。しかし、学校の国語の授業では教えてくれなかった。ライターをしているから、一応の国語力はあるはずだが、読めないものは読めない。
古文漢文を教える代わりに、契約書や公文書の読み方を教えてくれた方が、日本国民のためになると思う。でも、古文漢文の方が面白い。
今日一日を通じて感じたことは、知らないことは損だということだ。
漏電ブレーカーについて知っていれば、暗闇で歯を磨く必要はなかったし、離職票が必要と知っていれば退職前に確認していたし、年金について詳しく知っていればより賢い決断ができたし、契約書の正しい読み方を知っていればフリーランスとしての仕事がよりスムーズに進んだ。
ネットには情報がいくらでも転がっている。
だが、その場その場での判断では、悠長にネットで検索している時間はない。ネットの情報が正しいとも限らない。さらに、人間が知識を得ることができる量には限界がある。だから、「専門家」が重宝されるのだろう。しかし、データ量では人間よりAIが上だ。だが、AIも間違える。最近、単純な計算ですら間違えていた。
結局のところ、賢く生きるためには、一定の幅広い一般知識と、その知識を使って瞬時に思考を巡らせる能力が必要なのだろう。
コメントを残せるのはログインした人だけ
昨日からブログを書き始めた。
しかし、正直「ブログ」の定義がわからない。日記をはじめ、読書記録やまとめ記事、役立つ情報を発信するウェブサイトや、明らかにアフィリエイトを意識しているような購買訴求を行っているウェブサイトなど、ありとあらゆるウェブサイトが「ブログ」と称している。
広辞苑では「個人や数人のグループで運営される日記形式のもので、情報提供や意見交換などのコミュニケーション機能が付加されている」と説明されている。
しかし、ブログと称していても日記形式ではないものも、コミュニケーション機能をオフにしているものもある。
ともあれ、個人、あるいは少人数のグループが運営しているウェブサイト記事は「ブログ」と称しても問題なさそうだ。
そこで、私のウェブサイトでは、日々思ったことを短めの文章量で書く記事群を「ブログ」と呼ぶことにした。そのため、ブログ記事では近状報告やふとした思いつきをシェアするかもしれない。
一方、ブログ風の文章であっても、少し長めでひとつのテーマやトピックに関してそこそこ議論したくなる場合もあると思う。
こちらに関しては、「ジャーナル」と称することにした。Journalにも「個人の日記」という意味があるが、ここでは「専門雑誌」や「学術誌」という意味合いのジャーナルである。本ウェブサイトのサイト名も後者のJournalの意味で名付けている。
そして、コミュニケーション機能については、ウェブサイトにユーザ登録をしてくれた方のみにコメントの投稿を許可することにした。
これは誹謗中傷対策だ。
正直、誹謗中傷を受けても「暇なんだな」とか「面白いな」と思って楽しんで読んでいる。
特にYouTubeのコメントは非常に発想力に富んだ(?)誹謗中傷コメントを多数頂戴する。
誹謗中傷コメントを読んで落ち込むことはほとんどない。そのため、誹謗中傷コメント自体は良いのだが、困るのはその曝露性と返信だ。
私自身も日頃から何人かのブログを読んでおり、特にお気に入りのブログについてはコメント欄まで読む。
他人がその記事に対してどのようなことを思ったのか気になるし、またそれらのコメントに対してブロガーが返信している場合はなお興味深い。私みたいな人がいることを想定すると、私自身に向けられた誹謗中傷コメントを私のブログの読者も読むことになる。
私個人が読むには誹謗中傷もかまわないが、それをわざわざブログに足を運んでくる(実際には運んでいないが)読者に見せるのは忍びないと感じる。また、すべてのコメントに返信したいと考えているのだが、誹謗中傷のメッセージに返信するのは時間の無駄だと感じる。誹謗中傷コメントは非論理的で感情的なものや根拠が薄いものが多いため、真摯に返信するものでもない。
しかし、私のウェブサイトにログインするとなれば、メールアドレスを登録する必要がある。
これは手間であり、また個人情報を譲渡しなくてはならない。誹謗中傷コメントは、特に匿名の状態だと起こりやすい傾向がある。
顔や名前が出るときには到底言わないようなことを言うようだ。相手にメールアドレスをばらしてまで誹謗中傷する人は、そうそういないのではと想定している。
このステップを経てコメントをする人は、しっかりと主張したいことがある人、それか私の記事を気に入ってくれた人であろうと考えた。
もし、ログインしてまで攻撃的なコメントを送ってくる人がいたとしたら、その大半は私自身に何かしらの問題がある場合だと思うので、そのような場合にはきちんと対応すべきだと考える。
今まで受け取った誹謗中傷コメントはスクショを撮っている。YouTubeが最も誹謗中傷コメントが多い。
ここ2年間は会社員をしていたため、コメントを受け取る機会はあまりなかった。しかし、以前使用していたiPhoneのカメラロールを遡れば、多くの誹謗中傷コメントが見つかるはずだ。もしブログのネタが尽きたら、シェアしてみるのも面白いかもしれない。
正社員を辞め、今日から再びフリーランスに
今日は7月1日。2023年もすでに半年が過ぎた。
そして、昨日6月30日に正社員を退職し、本日からフリーランサーとして新たに再出発する。
再出発、と表現しているのは、過去にフリーランサーだったことがあるからだ。というわけで、区切りが良い日であるため、ブログを開始してみることにする。
写真は私のデスク。2つのデスクをL字に配置している。
見てのとおり、すばらしく散乱しているデスクである。
こういうのをエントロピーが増大している、というのだろう。私は机の上を整理しない。
もちろん、机がきれいだと気分が良いのは事実だが、散乱していることにもメリットはある。机の上に乗っているものは、いつも使うものや、お気に入りの道具だったりするため、きれいに配置してもまたすぐに取り出さないといけないから面倒だ。整理しないほうが効率的で生産性が高い。
また、目を通さなければならない書類や資料も積み重なっている。
これらの量が多いときは、やらなければならないことが多いことを意味しているから自分への戒めになるし、作業が完了したら机の上がきれい整うから作業のモチベーションアップにも繋がる(といいつつ、机の上から資料が消えたためしはないのだが)。今、このブログを白い方のデスクでMac Book Proを使用して書いている。
白いデスクは自分が所有しているMacを使う場所で、ご飯もここで食べる。
東京の1Kのマンションに住んでいるから、机はダイニングテーブルと兼用だ。茶色のデスクは会社から貸与されたPCを使う場所だった。
できるだけ効率的に作業を進めたかったからディスプレイを2つ置いていた。今日からフリーランスになったので、すべて自分のMacで作業ができる。これが実に嬉しい。
Mac Book Pro M2 Proチップ搭載モデルを使用しているのだが、動作が非常に快適で、スペックに申し分はない。
一方、会社から貸与されていたのはWindowsのIntel Core i5。メモリも8GB。これで2つの外部ディスプレイに繋げて、ソフトを4つか5つ起動するのだから、かなり重たくて疲弊させられていた。Illustratorなど起動直後から固まってしまっていた。
会社員は、プライベート用より会社のPCを使う時間の方が長い。
より長時間使用するラップトップのほうがプライベート用よりもスペックが低いのだから、これには不満が大きかった。会社員は向かないと思った理由のひとつである。フリーランスの良いところは選択権が自分にあることだ。
契約を結ぶ選択、仕事で使う道具の選択、働く時間の選択、休暇日の選択——と個人が選択できる幅が非常に広い。正社員として働いていた会社からは今後も仕事を請け負う予定である。
退職日は昨日だが、すでに最終出社日に会社のPCを返却していたため、昨日は自分のMacで仕事をしていた。作業効率が非常に良かった。同じ仕事においても、フリーランスになると正社員時代よりも作生産性が向上すると考えられる。生産性が向上すると、余った時間を別のことをするために使えるから、こうしてブログを書くこともできる。
失って取り戻せない唯一のものは時間だと思う。
命や若さといったものも挙げられるが、これらは時間と相補的関係性がある。とにかく、命と若さの残りの時間を大切に使うようにしたい。
今日7月1日はフリーランスとして再出発した日でもあり、私の誕生日でもある。
やはり良い区切りの日である。区切る必要があるかはわからないが。