日本人の苦悩の根源はこういうことなのではないかなあ

今朝、ベッドの中でYouTubeを開きました。最近、YouTubeに動画を投稿していることもあり、自分のチャンネルの動向チェックが日課になってしまっています。最新動画は一日一食のメリットについてです。

わたしのYouTubeの話はいいとして、YouTubeのトップに現れたおすすめ動画に『能登半島地震で妻と子ども3人犠牲 4人に“最後のお別れ”』という動画が現れました。これで朝から非常に号泣。

現在、わたしはテレビを持っていませんし、日本に住んでいないので、そんなに日本の情報が入ってこないんですよね。能登の地震がどれほどの被害だったのかは、こちらから積極的に情報を収集しないと入ってきません。海外に住んでいると、日本は200余りの国のひとつに過ぎません。とくに(たぶん)BBCのような、全世界の情報をくまなく配信しようとしているようなメディアではなおさら。

やっぱり能登の地震も酷かったようですね。日本は10年に1回、非常に大きな被害の災害が起こる国、なんていう研究だか分析結果を読んだことがありましたが、これは真理があるのかも。

そして、その次にYouTubeのおすすめに現れたのがコレ。

東日本大震災で、小学校の教師が児童を川側に「避難」させ、津波にのまれてたくさん亡くなったらしいです。自分で判断して、裏山の高台に逃げた人は助かったとか。

わたしは、お恥ずかしながらこの悲劇や裁判を知らなかったので、詳細はチェックしていませんし、このYouTube動画は児童の遺族の側からの視点のみを扱っているため、短い動画の中で語られていなことは多いと思います。

でも、これで一番衝撃だったのは、日本人の集団性です。

大地震、津波が来るという自分の生存に関わるような事態においても、自分の意見よりも周囲の意見や周りとの調和を鑑みて行動する日本人。

意見を言うことや、他の人と異なる行動が「悪い」とされる社会。多様性を認めない環境。同調圧力。

これが多くの日本人の苦悩に繋がっていると思います。というか、これが理由でわたしは日本を出ました。

周りが皆残業をしていても、自分は帰るという行動ができる人はそう多くないと思います。

皆が中華が食べたいと言っている中、中華は苦手だから一次会には参加せずに別でご飯を済まして、二次会で合流する。これって多くの日本人がしないのではないでしょうか1

会議で、いいアイディアが思いついたとしても、自分のポジションだったり、周りの空気だったり、そういうのを読んで発言しない。だれもがそうだから、会議での議論が堂々巡りになって、進展なし。斬新さもなし。

いま読んでいる本で、脳科学者の著者が以下のように述べていました。

日本は数千年、数万年前から変わらず自然災害が多いのですから、そうした環境に適応できる、つまり長期的な予測をして準備を怠らない人たちが生き残ったと考えるのが自然です。 集団として見れば、構成人員の多くの割合が、そうした環境に最適化された人々である可能性が高いわけです。集団を優先する性質も含め、それが日本という環境における最適化の一つの結果であるのかもしれません。

人は、なぜ他人を許せないのか?

日本人は集団を優先することで生き延びてきた民族であるということです。でも、もし集団の意見が間違っていた場合やリーダーがよろしくない場合、今回のような悲劇に繋がってしまうというわけです。

そして、集団がよろしくない方法へ突き進んでいるとき、自分の頭で考え、自分の信じる道を行動する人は「変わり者」として淘汰されてしまいます。

前頭前野がよく発達している(つまり脳科学的に言う、知能の高い)人は、指示や命令を与えられても「すぐにとりかかれない」「学歴の割に動きが鈍い」「理屈ばかりこねる」などと評価されてしまうことがありそうです。要するに、「頭ばかり良くて使えない人、面倒くさい人」と思われてしまうのです。余計なことは考えず、指示や命令に即対応できる人の方が、現場では便利なのです。

人は、なぜ他人を許せないのか?

体育会出身の人が就活で有利になるのも、上からの命令を素直に従うことができて、苦しい環境でも和を以て貴しとなすことができるという素質・集団性に価値が見いだされているからですよね。

大学で学生の本分である勉学や研究ではなく、スポーツに注力していた人をより評価する会社があるというのは、正直矛盾しているようにも思います。

スポーツ選手や指導者になるために体育会に所属しているのはいいと思いますし、週に2、3回好きなスポーツで体を動かしたいからという理由で体育会に所属するのならば自然なことですが、W大学の体育会所属の人には「就活で有利になるため」に週7の部活をしていた人がいました。というか、リピュテーションのある体育会に入ってよい企業に就職するためにW大学に入学したという人もいましたしね。

多様性を狭めた集団は、短期的には生産性を向上させ、出生率も上昇して成功を収めるのですが、進化の歴史の上では滅亡に向かいます。(中略) 現在の環境や条件が急速に変化して、それまで「正しい」とされていたことの中央値が大きくずれてしまった場合、今まで適応していた人が生きづらくなる代わりに、それまで外れ値とされてきた「変わり者」や「圏外にいる人」が、むしろ適応できるようになることが起こり得るからです。だからこそ、種を継続させていくためには、ある程度の多様性を確保しておいた方が、健全で安心だと言えるのです。

人は、なぜ他人を許せないのか?

人は、なぜ他人を許せないのか?』まだ読み終わっていないのですが、非常に興味深い本です。わたしは日本社会に適応できなかった2、日本社会で幸せになれなかった「敗北者」であるわけなので、こういう考え方には救われます。そして、日本にいたら気づきにくかったのですが、世界は本当に急速に変化しています。

大学4年生の時、周りがみんな就活していたけれど新卒フリーランスになったり、周りがマイホームローンを考えはじめる年齢で会社を辞めて海外移住したり。一日一食しか食べないと言うと怪訝な顔をされるし。「世間と真逆を言っている」(と友人に言われたことがある)のです。

でも、わたしも大学に行く気がなかったのに、過激な進学校・T高校に入ったことで周りがみんな勉強していたから、結局大学に行くことになったし、ロンドンの多様性しかない社会は逆にカオスすぎてついていけないこともあるし。日本とロンドンの多様性のアクセプタンスは、0から10のスケールの1と9という極端さです。もう少しモデレートな場所に住みたいかもしれない。

そして、わたしが何だかんだで完全に「変わり者」にはなりきれないのは、やはり日本で生まれ育って集団性が身に染みついているからだろうし、中学までは「優等生タイプ」だったし3、会社員だったときは(キレてないときは)おとなしくしていたし、基本意見は言わなかったし。

まだまだ、社会について人生について考えることがいろいろありそうです。

この本と並行してゲーム理論の本も読んでいます。こちらも非常に興味深い。でも、ゲーム理論を詳しく知ってしまったら、すべての決断や行動において、ナッシュ均衡やパレート効率性について考えながら生きていかないといけなくなりそうで、少し怖いです。

シティで見つけたフラッグ。最近イギリスは寒すぎてポケットから手を出すのが億劫で写真があまりありません。
Lina (ライター)
早稲田大学卒業後、新卒でフリーランスライターとして活動をはじめる。現在はライター業に専念しつつ、ブログやYouTubeでも情報を発信中。 ロンドン在住、鹿児島出身。趣味はテニスと史跡巡り。
  1. だから、和食ってイタリアンや中華などとは違って「多様性」があるのかなあ。日本食レストランに行って、メニューに自分が好きなものがひとつもないなんてことないですよね。だれもが楽しめるのが和食です。もちろん外国人も日本食が大好きです。最近、イギリス人の友達に「日本食が世界一美味しいと思うか」と言われて、悩んだ末に「イエス」と言ってしまいました。すべての日本食が平均的なイタリアンより美味しいかというとNOだけど、生の肉や魚から、火の通った肉や魚まで、そして甘い物から辛いもの、酸っぱいものまで、極端なバラエティがあります。というか、日本食の定義がわからない。オムライスは日本食なのか。ナポリタンスパゲッティは日本食なのか。
  2. 適応はできるけどそれがストレスだった、が正しいかな。というか、ストレスなく日本社会に適応できる人どれくらいいるのかしら?
  3. というか、わたしの中学校はカオスな学校だったので、優等生が変わり種だったから居心地が悪かったのだけれど。

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